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■ 2012年07月29日(Sun)23:21  アストロラーベ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%99

アストロラーベ(Astrolabe )は平面アストロラーベとも呼ばれ、古代の天文学者や占星術者が用いた天体観測用の機器であり、アナログコンピュータでもある。
用途は多岐にわたり、太陽、月、惑星、恒星の位置測定および予測、ある経度と現地時刻の変換、測量、三角測量に使われた。
イスラムとヨーロッパの天文学では天宮図を作成するのに用いられた。
アラビア文字・アラビア語: اصطرلاب ‎ aṣṭurlāb アラビア語: استرلاب ‎ asturlābなどと綴られるが、ペルシア語ではこれらの綴りで uṣṭurlāb/oṣṭorlāb と読み、トルコ語でも usturlâb となる。

アストロラーベの発明者は知られていないが、18世紀に六分儀が発明されるまでは航海における主要な測定機器であった。
アストロラーベの発明者としてヒッパルコスやヒュパティアを挙げる歴史学者もいる。

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那由多の軌跡でも出てきますねー。
見た目はまったくちがうものですが。


■ 2012年07月28日(Sat)21:40  アメリカ同時多発テロ事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/911%E3%83%86%E3%83%AD

アメリカ同時多発テロ事件(アメリカどうじたはつテロじけん)は、2001年9月11日にアメリカ合衆国で発生した、航空機を使った4つのテロ事件の総称である。

航空機を使った前代未聞の規模のテロ事件であり、全世界に衝撃を与えた。
その後、アメリカ軍はアフガニスタン紛争、イラク戦争を行うことになる。
また、飛行機のマンハッタン高層ビルへの大規模衝突事件としては、1945年のエンパイア・ステート・ビルディングへのB25激突事故以来となった。

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一方では大規模テロといわれ、一方では誰かに仕組まれ爆破されたともいわれ、いろいろ陰謀めいた事件。
アメリカが力を持つ背景には巨大な軍事産業があるわけですから、深い闇があるのは頷けますねぇ。

まぁ日本じゃまずありえんな^^;


■ 2012年07月07日(Sat)01:35  京王 新宿駅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85

・所在地
東京都新宿区西新宿一丁目1-4
北緯35度41分23秒
東経139度41分57秒

・所属事業者
京王電鉄

・所属路線
■京王線

・キロ程
0.0km(新宿起点)

・駅構造
地下駅

・ホーム
3面3線

・乗降人員
-統計年度-
711,892人/日
-2011年-

・開業年月日
1915年(大正4年)5月1日

・備考
京王新線は後述
乗降人員は京王新線との合算

小田急電鉄の西隣、京王百貨店新宿店の地下2階相当および新宿ルミネ1の地下3階相当に3面3線の頭端式ホームがある。
南北に線路が延びており、駅先端部で西へ折れている。
当駅は、新宿管区の主管駅(元締の駅)となっており、京王線新宿駅と新線新宿駅を管轄している。
京王線内で1 - 3番線の新宿駅にあえて『京王線』を冠するのはそのためである。

1963年(昭和38年)の完成当初は18m車6両編成対応の頭端式ホーム5面4線の構造であったが、西口地下広場下にある西口駐車場などの存在で頭端方向へのホーム延伸が出来なかった為、その後行われたホーム延伸工事の際に一部のホームと線路の閉鎖、移設などが行われている。
1968年(昭和43年)の7両編成対応の際に4番線乗車ホーム・降車ホーム(いずれも当時。
現在新線新宿駅にある4番線とは異なる)及び線路の閉鎖を行い4面3線の構造となった後、1982年(昭和57年)の10両編成対応に伴い1番線降車ホーム(当時)の撤去及び線路の移設、及び京王八王子方の両渡り線の移設が行われ現在の3面3線の構造となっている。
現在でもホーム下の一部やホームの支柱配置にその名残が見られる。

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もともと4ホームあったのは聞いていましたが、
相当昔のようです。
ちなみに乗降人数70万人は私鉄では全国2位らしい。(1位は東急の渋谷駅で100万人前後)
東急渋谷、ぶっちぎりですねー^^;

JRだけでみてみると新宿駅が1位(70万人超)で東京駅は意外にも40万人(新幹線除く)。
まぁ、あんまあそこで乗降することないきがするから、そういうものなのかなぁ。


■ 2012年07月01日(Sun)08:25  アガディール事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E3%83%A2%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

第二次モロッコ事件(だいにじモロッコじけん、Second Moroccan Crisis)とは、1911年にドイツ政府が砲艦をモロッコ南西の港湾都市アガディールに派遣したことによって生じた国際紛争である。
別名「アガディール事件 (Agadir Crisis) 」。

1902年8月にベルベル人アブー・ルマラがスルタンを自称して現王朝に反旗を翻す(1907年鎮圧)など、20世紀初頭のモロッコでは反乱が頻発していた。フランスは鎮圧のためしばしば出兵したが、実質的な宗主国としてのフランスの地位を確認する行動ともいえるものであった。1907年8月にはフェスでスルタンのムーレイ・アブドゥル・アズィズ4世 (Mulai Abd-al-Aziz IV) の廃位を要求する民衆運動が発生し、これに呼応したムーレイ・アブドゥル・ハーフィズ (Mulai Abd-al-Hafiz) は1908年1月、兄を廃してスルタンの位に就いた。こうした中央の混乱も、フランスの進出を助長した。

第一次モロッコ事件での緊張はアルヘシラス会議によって表面上は解消され、フランスはモロッコに対する影響力を強めた。
1908年9月、フランス外人部隊の兵士3名がカサブランカでドイツ船に乗って逃走したことから独仏が衝突したが、この時はドイツの譲歩によって1909年2月、両国間にモロッコに関する協定が成立した。
これにより、ドイツはモロッコにおいて経済活動のみを行い、モロッコにおけるフランスの政治的優位を認めた。
しかし、ドイツの野心はいまだ消えてはいなかったのである。

1911年、ベルベル人が大規模な反乱を起こした。
同年4月、フランスは鎮圧のためモロッコに出兵。
これに対してドイツは、同地に在住する自国民の生命・財産の保護を口実として、7月1日、にわかにイルティス級砲艦パンター号(英語版) をアガディール (Agadir) に派した。
実際にはアガディールにはドイツ人は居住しておらず、このためだけに近隣のドイツ人を呼び寄せたという。

独仏関係は再び緊張した。
7月3日、駐英フランス大使カンボンはイギリス外相グレイに対し、アガディールに共同で軍艦を派遣するよう強く要求した。
これを受けてグレイは、翌4日に閣議を開催する方針を決定。
一方、ドイツ首相ベートマン・ホルヴェークは駐英ドイツ大使メッテルニヒに対し、もしイギリスが強硬措置に出た場合、「パンター号の派遣は、フランスとスペインのアルヘシラス議定書違反に伴う経過措置に過ぎない」と弁明するよう命じた。
しかし独仏関係は強い敵対状態になり、両国の全面衝突は避けられないかとも思われ、ベルリン証券取引所(英語版)でパニックが起こったほどである。

イギリスは積極的にフランスを支持した。
7月18日、イギリスとフランスは軍事協定を締結。
7月21日には、イギリス蔵相ロイド・ジョージが対独強硬演説を行い公然とフランスを支持するなど、事態は全面戦争にまで至るかに見えたが、これと並行して独仏は、7月9日以降問題解決のため交渉を重ね、10月11日にモロッコ協定、11月3日にコンゴ協定がそれぞれ成立した。
ドイツはモロッコに対する要求を放棄し、その代償としてフランス領コンゴ(英語版)の一部であったノイカメルーン(英語版)を獲得し、ドイツ領カメルーン(英語版)の領土を拡大した。

1912年3月30日、フランスはスルタンとフェス条約を締結。
これによりモロッコは、他国の保護に甘んじることとなった。
セウタやメリリャなど北部とスペイン領サハラに接する南部はスペインの保護領に、残る大部分の国土はフランスの保護領となった。
また、タンジールとその周辺の373平方kmに関しては国際管理都市とされ、列強の勢力均衡が図られた。

この事件は独仏間に大きな遺恨を生ぜしめ、対して英仏関係を強化する結果となった。
また、保護国化に反対するモロッコ人民は、これを鎮圧せんとするフランス、スペイン両国の外人部隊と血みどろの抗争を繰り広げることとなるのである。


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